様々な異名を持っていた創立者・岡田一男
「飲食業界の革命児」「挑戦する経営者」「パブの元祖」「業界のイノベーター」「ナイトレジャーを産業に変えた男」。ダイワエクシードの創立者・岡田一男(1922〜2007)は、マスコミに登場するたびに様々な異名で評された。世界初のオンラインボトルのシステム開発を指揮し、飲食業界のだれもが後追いできないほど、次々と新業態店を世に送り出したパイオニアだった。ダイワエクシードの創立者は、どんな人物だったのだろうか。
商売人ではなくエンジニアとして奮闘する創立前夜
1922(大正11)年、兵庫県氷上郡春日町(現・丹波市)で生まれた岡田は、東京の中野高等無線電信学校を卒業した後、通信のエンジニアとしてNHKのラジオ放送局に入局した。戦争も通信兵として出兵し、終戦後はエンジニアとして腕を活かすべく、大阪で電力会社の電線修理やラジオ修理をしたり、電気器具の販売、電球工場を立ち上げて電球を作ったりもした。電球は、大手家電メーカーが次々に再建したことで、あっという間に売れなくなってしまう。
そんな時に岡田が目をつけたのは進駐軍の放出物資だった。舶来の石鹸や化粧品を売る雑貨店を開くと一躍人気店となった。その店を法人化し、「株式会社ふらんす商会」を設立したのが1955(昭和30)年10月27日。当社はこの日を創立日として歩み始めることになる。だが、この物品販売業も競合が激しくなるのを敏感に感じ取っていた岡田は、法人化する前から次の一手をどうしようかと考えていた。
すると、同じ舶来品仲間が「やり方を教えるから、すし屋をやってみないか?」と声をかけられた。全くの門外漢ながらも商売人として磨かれる日々だったのでアンテナは鋭かった。運営資金100万円を用意し、ふらんす商会を法人化した翌月の11月にはもう梅田の阪急東通商店街に「やぐら寿司」をオープンしたのだった。今日も飲食業に携わる当社にとっては、まさに第一号店である。

大繁盛した当社の第一号店「江戸一番やぐら寿司」


天職である飲食サービスに目覚める
岡田はもちろん寿司は握れないし、ノウハウもない。だが、それだけに業界の慣習にとらわれない大胆さがあった。たとえば舶来雑貨店でお得意さんだった芸能人から直筆サインをもらい、それを暖簾に染め上げてカウンターに掲げた。「全部のサインが読めたら無料」といった話題づくりが功を奏して店は大繁盛したのだった。
物品販売だと在庫管理は大変だし、価格も仕入れ次第。ところが、寿司店は「その日仕入れたものはその日のうちに現金回収できるし、価格決定権は自分にあって、在庫を持つ必要もない。私の進むべき道はこれだ!」と語っている。
飲食サービスこそ、まさに天職だったのだ。岡田は収益が上がるというだけでなく飲食業経営の妙味に強烈に惹かれ、「飲食業でいこう」とのめり込んでいく。次は知人との共同経営で1956年5月に「洋酒喫茶ボナンザ」を開店。3年後の1959年5月には自社店舗として「洋酒喫茶BEBE(ベベ)」を出した。ほどなくBEBEは2店舗、寿司店も2店舗、そして大阪・キタの最大の盛り場、北新地に「クラブVO」を出店。どの店舗も順調そのものだった。
店に客をつける会員制エスカイヤクラブの誕生
ほどなくしてクラブVOの家主から、敷地を買わないかと打診される。北新地は、銀座に匹敵する大阪の一等地であり、ひとつのステータスだ。「北新地に根を張って会社の基盤をつくろう」 と常々考えていた岡田は購入を即決。そこに1964年11月4日、エスカイヤクラブの第一号店となる会員制の「サントリー大阪クラブ」をつくった。
当時、酒を出す店には“ホステスにつく「犬のお客様」”と、“店につく「猫のお客様」”の二通りあったという。せっかくホステスを育てても辞めたらお客様も持っていかれる。だから店につく「猫のお客様」づくりをしたいと考えていた岡田は、業界雑誌が企画した世界一周の視察旅行に参加して、衝撃とともに大きなヒントを得て帰ってきた。
それは“いいお客様を守るために、悪いお客様にはご遠慮いただく”という会員制システムと、アメリカのプレイボーイクラブが採用していたバニーガール・スタイルのウェイトレスのサービスだった。岡田は「日本でもニューリッチ(若い富裕層)のためのクラブがつくれるのではないだろうか」とチャレンジしたのがエスカイヤクラブだったのだ。
初任給が1万円ぐらいの時代。年齢30歳以上の自営または管理職以上、入会金2万円、月会費5千円でスタート。バニーガールによるサービス、鍵付きのキープボックスに自由にボトルを持ち込めるシステムが評判を呼んだ。このキープボックスは、後の世界初のオンライン・キープボトル・システムを生み出し、今や世の中に定着している“ボトルキープ”という言葉を作ったのはこのときの岡田だった。

バニーガールと鍵付きキープボトルが
評判となった「サントリー大阪クラブ」
「ひとがやらないことをやる」約30種にもおよぶ業態を展開
高度経済成長期を経て時代は、外食産業、飲食サービス産業も大きなマーケットに成長を遂げようとしていた。それに呼応するかのように岡田の新しい業態開発は凄まじく、時流を読み、出店する店舗は先見性に満ちていた。
たとえば「日本人の生活スタイルも大きく変わり、酔うためにお酒を飲むのではなく、楽しむためにお酒を飲むようになった」と岡田は語り、パブ形態の店舗の先駆けとなった大衆酒場「グランドパブ」を出した。
また「舞妓」出店の経緯も次のように話す。「海外に行くとその国の踊り、伝統文化に気軽に触れることができます。折しも大阪万博(1970年)の前景気。外国から来られた人々に日本の美しい舞踊を気軽に観てもらいたかったのです」と。実際、万博時には外国人が団体で店を訪れ、大盛況となった。
ちなみにその大阪万博のときは、太陽の塔の下にあるテーマ館に「サントリー・レストランパブ」 を出店。洋食、中華、寿司、喫茶という何でもありの大食堂を運営し、大きな収益を上げるとともに当社の実力を業界に示した。
こうして開発した業種は、約30種にもおよんだ。どうすればお客様が安心して来店し喜び楽しんでくれるのかそれには「“飲みにケーション”に必要なあらゆるステージを提供すること」とした岡田の強い顧客志向が業態開発を後押ししたといえるだろう。余談だがこの“飲みにケーション”という言葉は当社のテレビCMから始まった。

今や誰もが知る「飲みニケーション」という言葉は、当社のCMに由来する
ある業界誌のインタビューに業態開発について聞かれたとき、「イノベーターの自覚は、いつでも失わないつもりです。そして、人々のライフスタイルの変化、マーケットのセグメンテーションは常に正視して、情報を的確につかみ、分析していきます。他人のやらないこと、考えつかないことをやってこそ魅力ある店づくりができるんです」と答えている。イノベーターとしての意欲を燃やし続けているのが岡田だとその業界誌は評していた。

1968年にオープンした「舞妓」はお客様のニーズに合わせて絞り込んだ業態だった

コンピューターが、お客様第一主義につながる!?
業態開発により、水商売と言われたナイトレジャーを次々とチェーン化、企業化するにあたり、岡田の経営哲学は「私たちが常に立ち返るべき原理原則は『お客様第一主義』以外にありません」と話している。そのお客様第一主義をどのように体現していくのか。注力してきた2つの軸があった。1つはコンピューターを経営合理化の武器にすることだと。それとお客様第一主義とはどうつながるのか。
例えば1971年に請求事務をコンピューター化した。当時は店長がお客様の会社に伺って集金していたがチェーン展開していたため、同じお客様の請求書が2通も3通も発生することがあった。するとお客様から請求書は1つにしてほしいという要望が相次いだからだ。
また1976年、世界初となる「オンライン・キープボトル・システム」だ。その開発のきっかけは、 “出張地でもキープしたボトルが使えたら”というお客様の声に岡田はなんとか応えたいと思った。「エスカイヤクラブのお客様は、働き盛りの方が多く、もっともなご意見でした。それで私が陣頭指揮を取り、若手社員たちと開発に取り組んだのです」と、元々エンジニアだった岡田は意気揚々とリーダーシップを発揮したことだろう。
システム稼動後、店の従業員もボトルを探す手間が省けて、その分、接客サービスに集中できるメリットがあった。
お客様第一主義を標榜するだけに、こうした「お客様の声」を真正面から受け止め、時にはコンピューターの導入と開発という手法で課題を解決していった。経営合理化、業務効率化が進むことでお客様へのサービス向上につなげていったのである。
人材育成も、お客様第一主義につながる!?
お客様第一主義を実現するための2つ目の軸が、「人材育成」だった。
飲食サービス業は、もともとノウハウがある業界ではなかった。岡田は「結局は人間を教育し、他店よりサービスマインド、ホスピタリティを優れたものにしなければならない」と。なぜなら「サービス業とは心のビジネス、おもてなしの心を育むことだから」と唱え、海外研修をはじめ、様々な研修プログラムを整備し、心を配った。
岡田が人材育成に熱心に取り組んだ理由はお客様第一主義と、実はもう一つあった。創立後、家庭環境に恵まれない厳しい状況にいる従業員の存在に気づいた岡田は、「私は父親役を引き受けなければいけないのだと痛感した。彼女や彼らが生き抜いていくための『明日』に役立つ何かをしてあげなければいけない。それは何か? 私が見つけ出した答えは『教育』だった」と振り返える。結果、働くことの意味を見出し、誇りを持って歩いていく従業員たちの姿勢に岡田自身が感動したと話す。
教育熱心であった岡田はそれなりに部下にも厳しい一面もあったが、岡田らしい人間性を物語るエピソードで締め括りたい。
海外での視察旅行で持ち帰ったシャンデリアがあった。ある時、従業員が掃除をしていた際に誤って落として壊してしまった。岡田が大切にしていたのを知っているだけにその従業員は叱られるのを覚悟して電話をした。ところが「ケガはなかったか?」と聞かれ一言も叱られなかったという。
お客様第一主義を実践するのは従業員であり、その従業員を大切にしなければお客様第一主義を実現できないことがわかっていた岡田は、正直に連絡してきた社員を叱ることもなく、逆にケガをしなかったどうかを心配したのだった。その心遣い、精神は今も受け継がれている。
こうして当社の社長、会長を務める傍ら、様々な団体役員を歴任し、国からは藍綬褒章、紺綬褒章、勲四等瑞宝章を受章した。2007(平成19)年2月4日に永眠。享年84歳。
日本の飲食サービス業界の一角を築いた生涯だった。
